ゆうべつびと物語(1)元住友商事副社長、島崎憲明さん=東京都中央区在住
町とともに『湧別』ラベルの日本酒造り
上川大雪酒造は、日本最大の大雪山国立公園の北方部の上川町に位置し、2017年に設立された。北海道産の酒米と麹(こうじ)、大雪山麓で採取した天然水を使い、昔ながらの手造りの手法で旨(うま)みとまろやかな日本酒を醸(かも)している。
元住友商事副社長の島崎憲明さん(77)は同酒造会長を務める。
同酒造は湧別町と提携して『湧別』のネーミングがついた日本酒を造ることにしているが、まずは島崎さんと湧別町の関わりを探ることにする。
島崎さんは湧別町出身だ。先祖は加賀藩下だった富山県高岡市から移住した元士族、浄土真宗で錦町の法明寺の檀家(門徒)である。曾祖父は明治・大正期、港町で料理屋などを営んでいたこともあったという。祖父、両親は湧別郵便局員だった。
島崎さんは生まれてから小学校まで緑町で過ごし、中学校から中湧別に引っ越し湧別高校に通った。
湧別の原風景は波の音と港の様子
島崎さんにとって湧別の原風景は次のようなものだった。
<小さい時に緑町に住んでいました。自宅は浜から400~500メートル。夜になると波の音が聞こえる。流氷がくるとシーンとして波の音が聞こえなくなるのです。3月末から4月にかけ、離岸する流氷がぷかぷか浮いている。流氷が去るとカニ漁が始まり、籠(かご)を持って港にカニを買いに行った。湧別港は湧別川の河口にあるので、ポンポン船が海に出る時、波に浮いたり沈んだりしてハラハラしながら見たのを覚えています>
島崎さんの幼少期の記憶の基底には湧別の浜の風景がある。
高校時代、数学が得意で吹奏楽でチューバを吹いていた。父の勧めで、2年生の夏休みに下宿して札幌の予備校に通い、「現役で国立大学に進学」の約束通り、小樽商科大学に進学した。小樽商科大学では寮生活を送りながら、バスケットボールに打ち込み、応援団長も務めて青春を謳歌した。
厳しい自然がチャレンジと助け合いの精神育む
その後、住友商事に入社し、商社マンの道を進むわけだが、「自然の厳しい湧別、北海道に生まれ育ったせいか、リスクをとってチャレンジすること、人の関係を大切にして助け合い、組織を束ねること」を信条にしてきた。
住友商事では主に財務経理畑を歩み、8年間のニューヨーク勤務の後、1992年2月、45歳の時に日本に戻り、2年をかけて財テクの後始末と財務の健全化を進めた。そして、1996年に住友商事最大の事件として知られる営業部長による銅地金の不正取引が発覚すると、主計部長として処理にあたった。同社の自己資本7000億円の半分近くにあたる巨額損失の処理だっただけに「対応を間違えると会社がつぶれる。しょせん自分は田舎者なので失うものがないと腹をくくった。会社のために必死でした」と語る。最後は副社長に上り詰めた。200人の同期のうち、役員になったのは6人だけだった。
小樽商科大の縁が人生に彩り添える
住友商事を退社後、小樽商科大学の同窓会理事長を7年務め、同大との関わりは島崎さんのその後の人生に彩りを添えた。島崎さんは母校の後輩で上川大雪酒造の社長を務める塚原敏夫氏との出会いが縁で、同社の創業者メンバーとして北海道での戦後初の酒蔵新設に参加し会長に就いたのだ。
現在、島崎さんは塚原さんとともに小樽商科大学の特認教授に就任し、「母校でアントレプレナーシップの講義を通して、次代の起業家を育成したい」と酒蔵の創業からの歩みを教材にして、経営やマーケティングについて学ぶ「上川大雪酒造ゼミ」を開講している。また、小樽商科大学が展開している道内10町村でサテライト教室を開設し、働きながら地元で大学教育を受けられる仕組みつくりにも協力しているが、湧別町はこれに参画する準備に入っている。さらに、刈田智之町長の肝いりで『湧別』の名称のついた特別酒づくりの企画も進んでいる。
今年1月、島崎さんは55年ぶりに真冬の湧別の地を踏みしめた。「凍てつく湧別の雪道を歩くと、小学校の頃、極寒でもきちんとした防寒具もなく、マイナス20度ぐらいになって浜風が吹くと学校の始業時間が遅くなったことを思い出します」と当時を振り返って笑顔を見せた。
(取材・文/ふるさと特派員 清宮 克良)
湧別町のふるさと特派員を務める清宮です。湧別町にゆかりのある方の「ひと」模様を連載する「ゆうべつびと物語」を発信していきます。