ゆうべつ@サッポロ<新篠津村特別編1>

 10月初旬、札幌から車で50分ほどかけて石狩振興局管内の新篠津村を訪ねました。新篠津村は湧別町の友好都市。戦後の昭和20年代後半、上湧別村(現・湧別町)から集団で入植した人たちが、新篠津村の未開拓地を切り開いたのが縁です。道の駅や産直市場など新篠津村には何度も足を運んでいましたが、友好都市であることや開拓の歴史を知ったのはごく最近のこと。「なぜ上湧別から新篠津へ?」と興味がわきました。現在の新篠津村長の石塚隆さん(70)は旧上湧別町で生まれ、小学生のときにこの開拓地へ移住したつながりもあります。そこで、今から70年あまり前までさかのぼり、いくつかの資料をもとに、石塚さんの話も交えて開拓の記録と記憶をたどることにしました。
(上湧別町史、新篠津村史、新湧の開拓30周年・入植50周年記念誌などを参考にしました。複数回の連載を予定しています)

石塚新篠津村長

◆新篠津村長 石塚 隆(いしづか・たかし)さん 旧上湧別町生まれ。10歳だった昭和39年(1964年)に父侃(すなお)さん、母妙さんら一家5人で新篠津村に移住した。石塚家は上湧別では畑作を主体に営農し、移住後は稲作に転換した。村議会議員を経て、平成29年(2017年)の村長選に立候補し、無投票で初当選。令和3年(2021年)に無投票で再選された。

「新湧」開拓記<1> 農家の二、三男対策~「不毛の地」へ

新篠津村地図

 まず上湧別村からの集団入植地「新湧」を目指した。新篠津村の北端にあり、当別町や月形町と接するあたりと聞き、両脇に稲刈りあとの風景が広がる道を車で走っていると、自治会館に出くわした。会館名に「新湧」とあった。

新湧自治会館
新湧自治会館
新湧自治会館の奥に馬頭観世音碑などが建立されている
新湧自治会館の奥に馬頭観世音碑などが建立されている
馬頭観世音(左)と地神宮の碑
馬頭観世音(左)と地神宮の碑

 その奥に馬頭観世音と地神宮の二つの碑が並び建ち、馬頭観世音碑には「昭和二十八年七月建立 平成六年七月再建」と刻まれていた。再建前の碑は開拓団の入植が始まった昭和27年(1952年)の翌年に建てられたものだった。まさに人馬一体となって開拓に力を尽くした愛馬をしのび、毎年7月17日を「馬頭祭」と決めたそうだ。
 「新湧」の地名は「新天地上湧別」や「新篠津と上湧別」の意味を込めて付けられた。

 新篠津村は明治29年(1896年)、篠津村(現・江別市篠津)から分かれて誕生した。村全体が石狩川右岸(西側)の石狩平野にすっぽりと納まる平たんな場所にありながら、村内に広く分布する「篠津原野」と呼ばれるエリアは開拓が進まず、ほとんどが原野のまま取り残されていた。新湧地区もこのエリアに入っていた。

石狩平野に位置し、平たんな土地が広がる新篠津村。
石狩平野に位置し、平たんな土地が広がる新篠津村。写真奥が新湧地区=石狩川の堤防から撮影

石塚さん「篠津原野は馬もぬかるような軟弱な泥炭地。かつては『こんなところは農地にならないだろう』と言われた土地で、手つかずになっていました。それを何とかできるような技術もなかった時代ですから」

 泥炭地は樹木や水草などの植物が十分に分解されずに積み重なってできた土地。泥炭(ピート)はウイスキーの香りづけに使われることで知られるが、ぶよぶよして水はけが悪く、栄養に乏しい。新篠津村のみならず、隣接の市や町にも広がる篠津原野は「不毛の地」と言われた。
 そんな土地になぜ、わざわざ上湧別から開拓に入ることになったのか。そこには当時の日本に広く共通する問題が色濃く反映されていた。

 戦後、食糧増産のため全国で未開拓地の開拓が始まった。新篠津村も対象になり、用・排水路の働きをする「篠津運河」の掘削や土地改良事業など広大な篠津原野の泥炭地という悪条件を克服し、農地にかえる取り組みが動き始めた。村は開拓の担い手を確保するため新たな入植者を村外からも迎えようと考えていた。

 一方、上湧別村は復員や外地からの引き揚げで人口過密状態だった。昭和25年(1950年)の新篠津村の人口は3,450人(現在約2,730人)。これに対し、上湧別村と下湧別村の人口は合わせて2万5,505人と、約7,900人の今の湧別町の3倍以上もあった。

 戦地などからの帰還はもちろん喜ばしいことだが、上湧別村はもともと農家1戸当たりの経営面積が小さく、土地不足が大きな問題になった。農家の二男、三男らは「家にいて、出るに出られず、居るに居られず」(湧別町・博物館だより第162号)の居場所のない状態とも言われた。その数は200人にのぼったとされ、道内農家の「二、三男対策潜在調査」でも密度の高い村だったという。

 「食糧増産の担い手対策」と「人口過密による二、三男対策」。差し迫った課題に頭を悩ませる二つの村の橋渡し役をした人がいた。

石塚さん「仕事で新篠津村に来ていた上湧別出身の福島正雄さんが、野村忠三郎村長と会って話をしたのがきっかけで双方の思いがつながり、当時の石狩支庁などにいた上湧別出身者の協力もあって話が進んだと聞いています」

 その福島正雄さんは開拓30周年記念誌に「東和株式会社社長」の肩書で寄稿し、新湧を入植地に選んだのは「全く偶発的な(思いがけない)ものだった」と野村村長とのやりとりを振り返っている。

 野村村長と会ったのは26年1月。雑談の中で上湧別の現状を説明していて「適当な入植地があれば優秀な農家の二、三男を送り込みたい」と話したところ、村長は「それなら適当な土地がある」と言って、開拓計画図を示して熱心に説明を始めた。福島さんは五つの開拓計画地から最北部の土地(後の新湧)をその場で選んだ。
 その理由の一つに「稲作転換に最も有利な条件を備えている」ことを挙げている。

かつては泥炭地だった新湧地区
かつては泥炭地だった新湧地区。福島正雄さんの目にはどんな未来が映っていたのだろうか=いずれも2024年10月撮影

石塚さん「有利な条件が具体的に何を指しているのかはわかりません。ただ、村内でも北の方は雪が多いけれど、日本海から吹く風は比較的弱く、気温が高めで米がよくとれるのではないかと言われていたようです。食糧増産は国の考えでもあり、新たな土地でゆくゆくは米作りをしようという期待は大きかったのだと思います」

 福島さんはこの話を上湧別村に持ち込み、どちらにとっても「渡りに船」の開拓移住が動き出した。上湧別村の助役らが視察・調査し、福島さんも選んだ村最北部は「将来極めて有望」と確かめ、1戸当たり約10ヘクタールで30戸(約300ヘクタール)の入植を決めて協約を交わした。

 この年、入植の募集が始まると希望者は殺到したが、排水が流れる所がない泥炭地であることなどの説明を受けて思いとどまった人もいたようだ。農家の二、三男で分家が必要であることはもとより、本家から農機具や農耕馬、1年くらいの生活費の援助があって農業に熱意のある人といった条件もあり、道や新篠津村の職員が村を訪れて選考審査が実施されたという。

 こうして決まった入植者第一陣の先発隊10戸が上湧別村を出発し、直線距離で約180キロ離れた新篠津村に入ったのは翌27年(1952年)4月下旬だった。
(次回<2> 「度重なる苦難」に続く)

(取材・文/ふるさと特派員 島田賢一郎)